2009年9月23日 (水)

シルクロード スストからフンザへ

          カラコルムハイウェイを走る
国境の町 スストで入国の手続きをしてカラコルムハイウェイを更に走ります。 前にも書きましたが ハイウェイなどと言いますと私達は 車がスイスイト走れる舗装道路を想像しますが この道は違います。 舗装はされていますが かなり痛んでおり 車の擦れ違いをするのも苦労する所もあります。
ナンと言っても このスストからフンザ方面はまだ厳しい山岳地帯です。 8611mのK2を含むカラコルム山脈と 7708mのティリチミールを含むヒンド―クシュ山脈にはさまれている厳しい山岳地帯をすり抜けて走っています。  また その山々の間には 幾つ物の深い氷河地帯があります。
だから 道の所々には岩の間から氷河の融けた水が 勢い良く噴出している所があります。 冷たくて 美味しいですよ。

         フンザの中心の町カリマバード
スストからおよそ70km位でフンザの中心の町のカリマバードに着きます。 この町の高度も 4943mのクンジュラブ峠からかなり降りて来ましたが まだ2400m位あります。
私達は この道を舗装が痛んでいるなどと言いながら それでも 車で楽して旅行出来ます。 しかし これがシルクロードの交易路としても有った時の事を考えると本当に大変な路だなと 当時の人達の事を感心してしまいます。
01 この写真は フンザ川沿いに広がるカリマバードの郊外を写しています。
このフンザ川も 下流に行ってギルギット川などと合流して インダス川の上流となります。
写真の中央から やや左側に小さく写っているのが7788mのラカポシだと思います。
このカリマバードの一帯は 「風の谷のナウシカ」のモデルの地域だ などと言われると 何か そんな感じになりませんか?

夕方に この谷間にイスラム寺院のミナレット(尖塔)からアザーン(礼拝の呼びかけ)が流れます。  それを聞いていると 本当に遠くの国にやって来たな と嬉しくなります。
 でも 私の泊まったホテルでは ビールが飲めた様に思えたけど 勘違いかな。  この先は 本当に酒は普通は 飲めなくなります。イスラムはアルコールが禁止されているのです。

    そんな訳で この先はだんだんと 仏教遺跡もまた 現れてきます。
   そして また 原始仏教に付いても また考えていきます。

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2009年2月 8日 (日)

シルクロード 国境の町へ

         2009年もシルクロードです
新年が明けたのに 何故か続きのシルクロードを書く気がしないままに もう2月になってしまいました。
多分 多くの所で言われて居る様に 今年はシルクロードにとっても激動の年になるのでしょう。 今まで通って来た中国では 急激な経済成長のブレーキが 中国内部の経済格差での軋轢を表面化させるでしょう。  また アメリカのイスラムとの関係変化が ウイグルを中心とした中国内の民族・宗教の緊張を強めるに違いありません。
多分 オバマ政権の方が これらの民族・宗教の問題に関しては原則的な主張をするに違いありません。  それが良いのか 悪いのかは 何を基準にして考えるかで 大きく違ってしまうと思います。
これから向かう パキスタンでも同じ問題を抱えています。 パキスタンでは昨年 強権的ではあるが プラグマチックなムシャラク政権が倒れてしまい 原子爆弾を持った不安定な国家がイスラム原理主義に包囲されている と言って良いと思います。 経済的にも パキスタンは追い込まれています。
そんな事を 見ていると何か とっても気が重くなってしまい昨年から進めなくなっていました。

まぁ その事は これからも追々考えて行くとしてもシルクロードを先に行きたいと思います。

      国境の町 タシュクルガンからクンジュラブ峠へ
カシュガルから国道314号線を走って 前回書いたカラクリ湖の脇を通って 中国とパキスタンの国境の町タシュクルガンに着きます。  カシュガルからおおよそ300km位です。  出入国審査は町の外れに有ります。ホテルなどの有る町の中心の路は両側がポプラ並木になっていて なにか淋しげではあります。
この町では 余り見る物はないのですが 町の外れに石頭城という城壁の跡があります。
玄奘の「大唐西域記」の帰りの記述にも この城跡が書かれています。  行ってみましたが 寒い風に吹かれただけでした。
ここで審査を受けて パキスタンに向かいます。
国道の終着点のクンジュラブ峠は標高4700mです。 何度も 高山病に付いての注意を受けます。  でも 正直な所 行ってみなければOKかどうかは 分からないのです。
01 バスに揺られて ひたすら高度を上げて行くと 本当の国境の印に着きます。
バスに座っている時には気が付かないのですが ここに着いて歩き始めると視線が定まらないで 少しづつ眩暈が始まります。
最初は アルコールが入った感じで良いのですが だんだん気持ち悪くなります。

そんな訳で やっと 国境まで着くことができました。
では 次回から
カラコルムハイウェイで パキスタンの国境の町 スストに向かいます。

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2008年12月14日 (日)

シルクロードの国境

        国境の町に向かって 
カラクリ湖を過ぎて 中国とパキスタンの中国側の国境の町タシュクルガンに向かいます。
このパキスタンに向かうシルクロードは シルクロードの物資の交易路としては余り重要とは言えません。  しかし シルクロードを仏教を含む文化の交易路として考えると 重要な路だと思います。
国境の町に向かいながら 今まで通り過ぎて来た中国と言う国に付いてもう一度考えます。
ある地方紙に 辺見庸さんは 「東風は西風を圧倒したか」と言う一文を書いています。 これは 辺見さんが八月の北京オリンピックを尋ねて感じた事を元にしていす。  この様に 書いています。

    五輪を開催した北京に、私はいわくいいがたい違和感をおぼえ、そのわけを探しあぐねていた。いま、やっとわけがわかった気する。これはある種の自己嫌悪なのだ。資本という食人的関係性から逃れられない「われわれ」への。東風の資本は西風を圧倒しつつある。だが、資本の運動にはもともと西も東もありはしなしい。いまは魯迅にならい、こう祈ろう。「人間を食ったことのないこどもは、まだいるかしら?せめてこどもを」

私も 幾度と無く中国を訪れましたが ある種の違和感をずっーと感じています。シルクロードを旅して行く時の自分の気持ちの中には 明確な姿としてはないですが ある種の自分のルーツを探す気持ちが有ります。
しかし そこに有るのは形としての相似形と 気持ちとしての違和感です。それは 否定し切れないと言う意味で 自己嫌悪という形で自分自身に引き受けないと 本当の関係は見れないのだと思います。
中国に対する 私の個人的な幻想が打砕かれて行けば行くほど その想いは強くなる感じがします。

どちらにしても 人間はその様な個人的な幻想を基にして生きて行く動物であるのですから そこに拘るのは世界を拡げる とっても大切な要素なのです。

          では 国境の町を
そんな訳で 今年はここまでで終わります。
来年には 国境のクンジュラブ峠を越えてカラコルムハイウェイを通ってパキスタンに入りたいと思います。
パキスタンは 現在はイスラムの国ですが歴史的には 仏像の発祥の地でもあります。 その辺を来年は見て行きたいと思います。

     それでは 良いお年をお迎え下さい

          

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2008年10月26日 (日)

シルクロード カラクリ湖へ

         パキスタン国境への道
カシュガルを出発して ゲズ河沿いに国道314号線をパキスタンとの国境の町タシュクルガンに向かいます。
この国道314号線は 私達が過ぎて来たウルムチからクンジュラブ峠までの約1800kmを走っています。 このカシュガルからの路も この5年前位には綺麗な2車線の舗装道路になっていて 中国内陸部の開発のスピードを実感します。 綺麗になる前までは 落石しそうな切り立った岩山の下などを穴ぼこばかりのガタガタな路でした。
カシュガルを出て ゲズ河沿いにカラクリ湖を目指すと左側の ゲズ河の向こう
5 側に昔のシルクロードの路の跡を見る事が出来ます。
この写真の手前の少し平らな所には 当時の宿場の跡だと説明されました。カシュガルの標高は 約1200m位でこの辺りは 概ね2500m位は有ります。写真でも 後ろの方の山の厳しい感じが分かると思います。
この山並みは8611mのK2を含むカラコルム山脈の一部です。
玄奘三蔵も インドからの帰路にこの付近の路を唐の国に向けて帰ったと思われています。
この写真の路では 右から左に向かったことになります。
国道314号線を更に走ると カラクリ湖の手前に もう一つ湖が有ります。

この湖は 高度3150m位の所に有るウロン湖です。




湖は塩湖になっています。 だから厳しい冬でも水は凍結することがありません。湖の周りに放牧されている羊達は 夏の季節にこの周辺で飼育されて 冬に成ると 下の方に降りていきます。
02

写真を拡大して見て貰うと 分かりますが向こう側の山の下の方にある雪のような物は 風で削られた砂だと説明されました。
もしも そうならば とても生活するには 過酷な環境だな と思います。
このウロン湖を通り過ぎて 更に進むとカラクリ湖があります。
01 このカラクリ湖は 概ね3500m位の高度に有ります。
湖の向こうに連なる山は 7719mのコンガール山などです。
山々の間には 氷河の一部が迫り出しています。
何か 本当に雄大な感じがして 厳粛な気持ちにさせられます。
この時は 外気温は14度位でしたが 風が強くて 本当に寒く感じられました。 湖の水に手を入れてみましたが 冷たい!て感じではなくて 意外でした。

このカラクリ湖の横の国道314号線に立って 風景を眺めているとガタガタと一台のバスが走って来ました。
バスには 多くのパキスタン人が乗ってこちらを見ていました。
思えば このカラクリ湖から中国・パキスタン国境のクンジュラブ峠まで 約300kmなのです。 あのバスは カシュガルからパキスタンの国境の町スストまで走っているのです。

旅をしていると 何時でも 一つの目的地に行くと 必ずその先はどうなっているのだろうか? と 思うことばかりです。
そんな事で良いのだろうか と思いながら次回は 更に先に行きたいと思います。

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2008年6月15日 (日)

シルクロード 西安再訪で

      西安にまた行きました
この間 西安から敦煌を経てカシュガルまで行ったのですが 機会が有って今回 久しぶりに西安を再訪しました。
前回の訪問から 6年間位経っているので その変容ぶりに とっても驚きました。 中国の多くの都市は 本当に急激に華々しい方向に変化していると思います。 そんな 事を今回は報告したいと思います。

     大雁塔周辺は ピカピカの遊び場です
04 前回 大雁塔を訪れたのはカシュガルからの帰りに 傍の唐華賓館に泊まって 朝にぶらぶらと散歩がてらに行ったのが最後でした。
その時は まだ当然ですが大雁塔の周辺は 特別な開発などは行われていませんでした。
朝や夕方などは 静かな佇まいの中に塔が建っていて 玄奘三蔵が遥かインドから仏典をシルクロードを経て 此処まで運んで来たのだな て 勝手に物思いに耽る事も出来ました。 しかし 現在は違います。
この写真に在るに 塔の周辺はライトアップされた公園になり その横には食事をしたり買物をしたりする建物が取り囲んでいます。
また 大雁塔自体も ライトアップされています。現地ガイドによれば塔も 地下水の汲み上げの影響で ややこの写真にある様に やや左に傾いているそうです。 ガイドに依れば 地下に水を入れているので元に戻ると言っていました。ホントウかな?     傍の 唐華賓館も現在では 外国人には開放していないそうです。
  このような変化は 兵馬俑博物館の周辺でもありました。
前に訪れた時は 兵馬俑博物館の周辺にバスを止めて 沢山ある小さなお土産屋の間を 店員の「買っていけ 買っていけ」と言う喧しい声をすり抜けて 博物館に行ったのに 現在は全く違います。
デカクて立派な駐車場にバスを停めて そこから博物館の間は大きな公園のよになっています。 歩いて行くのな大変なので電気自動車が往復しています。
 あの多くのお土産屋は 一体どこに行ってしまったのでしょうか?

        西安の城壁に登って
03 現在の西安の城壁は 明代の立派な物です。
唐代の頃はもっと大きかったといいます。
この城壁に登ってみると この昔の城壁の大きさに関心させられます。
現在のような建築用の機械や工具などが無い時代に 本当に多くの労力が投入されたのだろうな と思います。
そして この城壁に登って周囲を眺めると 現在の西安の発達が良く分かります。
この写真にある様に 城壁の周りは高層ビルに囲まれています。商業ビルやマンションなどです。中国の高層ビルの上部は 多分風水の影響なのか 独特な形態をしています。
 それが 何とも いい感じではあります。

        そしてビールも色々になって
今回の旅行で 本当にビックリしたのは ビールの種類が増えた事です。  西安から 西に向かう旅のビールと言えば 前にも書きましたが 大体「西涼ビール」か「新疆ビール」でした。   今回の西安では 本当に色々なビールがありました。
02 現地の人達は「地ビール」と言っていました。
01 良くは分かりませんでしたが 同じメーカーで多少味付けを変えて ラベルを変えている様に感じました。
中国のビールは 基本的には アルコール度数が3.5%位で 普段私達が飲んでいるビールより 水ぽい感じです。 また ビールのコクて言う感じでも 物足りないと思います。  中国の人達は 普段50%以上の白酒で乾杯するのに 何故かビールのアルコール度数は低いみたいですね。

    そんな訳で 久しぶり訪ねた西安では 色々と驚かされました。
    でも その変化を感じる事も 旅の楽しみの一つではあると思います。

   次回は カシュガルに戻ります。

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2008年5月 3日 (土)

シルクロードで仏教を考えた

        私達 日本人は仏教徒なの
これは 前にも書いた事ではありますが 星星峡から新疆ウイグル自治区に入ると そこはイスラムの教えが中心となる地域です。
イスラムの教えの地域では まだ宗教が生活の中に建前としては強く残っています。毎日の事では 豚肉は食べないやお酒は飲まない。 そして一日五回のお祈りが ミナレットから聞こえてくるアザ―ンによって始まると そこは確かに我々は異教徒の旅人なのだと 感じるはずです。
この様な イスラムの教えの人達から 現世的で享楽的な傾向を強く表に出して来た漢族の人達を見ると かなり強い苛立ちが有るのではないかと 考えてしまいます。それは この先 カラコルムハイウェイをパキスタンに入ると 我々も アルコールは飲むことが出来なくなる事で強く 感じます。
そして その漢族の人達と私達 日本人は同じ仏教徒と言う事になっています。
このシルクロードで多くの仏教遺跡を観てくると あぁ多分 私も仏教徒なのだろう と言う感じではありました。 しかし それも仏教の中でも 一つの宗派である大乗仏教と言われる教えの物が大部分だったので 分かり易かったとも言えると思います。
今 中国のチベットで問題になっているチベット仏教は 一般的な大乗の教えとは異なるチベット密教で 私などには余り身近な存在とは言えないと思います。
密教の世界は また複雑で一筋縄では行かないと思いますが 複雑なのは現実の民族の問題も同じだと感じてしまいます。
新疆ウイグル自治区を含めた 中央アジアの民族問題や宗教間の確執はまだこの先も キット続くのだと思います。 
中国やロシアが もっと柔軟な対応が出来れば 緊張は少しは和らぐのでしょうが この二つの国は 1990年以降の新しいナショナリズムが国内に充満していて その様な事は無理なのでしょう。
だから 私達が シルクロードを旅していて 道路工事などを見かけた時は キット 工事を直接している人達は現地の民族の人で 監督は漢族の人と言う場面を見ると思います。

         さて 砂漠公路の先は楼蘭だ
カシュガルからホータンを通って 砂漠公路までやって来たけれど この先は幻の町 楼蘭です。今回は まだ この先の楼蘭には行っていませんので とりあ

01_2
えず現地の絵葉書です。
楼蘭には 私達一般の観光客が入るには かなりの費用が必要です。
それは 一種の入場料みたいな物がかなり高額だと聞きました。

でも 入ってはダメ なんて言われると余計に 入ってみたくなるものですね。機会が有れば 是非 訪れてみたいと 思っています。

 そんな訳で 西域南路をカシュガルから東に向かう旅は とりあえず終わります。 次回は カシュガルからパキスタンに向かう道に入ります。
でも その前に この出発点の西安を再訪して 報告したいと思っています。

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2008年2月17日 (日)

ホータンから砂漠公路へ

      ちょっと シルクロードを考える
シルクロードとは何か? 的な話は他の機会に譲って 今回は私もしくは 私達にとってのシルクロードを ちょっと考えてみたいと思います。
この場合 私もしくは私達とは 他の表現では 「日本人にとっては」とゆう表現でも良いけれど これだと 抽象的過ぎると思う。
NHKテレビでは 今でも「新シルクロード」が放送されていて 多分一定の視聴率は得ているのだと思うし その他シルクロードに関する本なども 旅行記なども含めて色々な物が出版されています。
何故 この様にシルクロードに対して 私達は関心を持ち続けて来ているのだろうかと 不思議になる事があります。
この事に関して 西方浄土に対する憧れと言うか 漠然とした期待感みたいな物が 有るのでしょうか。 歴史的にも 私達は文化も文明も そして宗教も西の方からやって来た物に 余りにも多く依拠しています。
この様な 気持ちと共に シルクロードの事に関して考えると 20世紀初頭にシルクロードに関する多くの文物が アジアの人達では無くて ヨーロッパなどの人達によって再発見されて来た事と 気持ちの奥では関係していると思います。
多分 人は鏡なしに自分の顔を見れないのに その鏡に対して恐れと共に憧れを感じてしまうことと似ていると思います。
明治35年にシルクロードに対して探検隊を出した大谷光瑞は 探検隊の概説書「西域考古図譜」の中で
   
明治35年八月、私はたまたまイギリスのロンドンに遊び、日本に帰ろうとし
   た時、ふとこの帰途を利用して、私の素志の一端を達すべきてあると考え
   た。

と イギリスやドイツ・ロシアなどの中央アジアの探検の熱気をヨーロッパで感じたに違いありません。 
だから シルクロードを考える気持ちには 何故か 二重に屈曲した所がアジアの人には有ると思うのです。 多分 中国の人達は 私達以上かもしれないと 勝手に 想像してしまいます。
まぁ そんな気持ちも振り返りつつ 先に行きたいと思います。

      ホータンから東に
ホータンから西域南路を 崑崙山脈沿いの幾つかのオアシスの町を通って東に向かいます。04 オアシスの町の周りは 風よけのポプラが取り囲んでいます。
また 道端では ハミウリが無造作に積まれて売られています。
ロバに車を引かせてウイグルの人達が通り過ぎて行きます。 路は 舗装などなく砂漠の砂があります。 小さな オアシスの町は 大体この様な感じですが 人々は何か満ち足りている様な感じします。
01  少し大きなオアシスの町にケリア(干田)と言う所には この様なウイグルの老人と 毛沢東が握手をしている大きな像があります。
 毛沢東のこの様な大な像は カシュガルの中央公園にもありました。
ここには まだ毛沢東が必要とされる事が 残っているのだ と言う事だと思います。
「ここは私達の国だと」言う事は 余り単純な事ではないようです。

 ホータンから 東に約400kmで 砂漠公路に着きます。
    

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2007年10月21日 (日)

シルクロード ホータンの街へ

       地図で 少し振り返ります
05 この地図は 近畿日本ツーリストが発行している本からお借りしました。
簡明な地図で 現在の状態ではなくて赤い実線は かっての路を示していると思いますが 分かりやすいと思います。
前回は カシュガルからヤルカンドを経てホータンに向かう路の途中で見た事などを書きました。
また北風で タクラマカン砂漠からの霧の様な 砂の煙がこの一帯には発ちこめている事なども書きました。
地図を見ながら振り返ってみると 6 こんな様なオアシスの町と町の間は荒涼とした砂礫のような砂漠地帯が広がっている所に それでも人々は 自分たちの生活をシッカリと作り上げているのを見ると 本当に何と言う事なく感動してしまうのです。
 そんな訳で ホータンに向かいます。

    ホータンは大きなオアシスの街
ホータンは ホータン河に囲まれた大きなオアシスの街です。街の中央には大きな通りがあり その路沿いにはホータンの名産品の玉を扱う店が連なっているのが見られます。
中国国内の大部分の玉は 現在このホータン河から採石されています。何故か漢族の人達はこの玉が大好きらしいです。 西安の更に西の殷墟(前2000年紀)からも大量の玉が発掘されている位です。
現在でも 魔除けの効能があると 我々のお守りみたいにして愛用する中国の人達は多いみたいです。
それにしても ここホータンから4000km以上は離れている殷墟まで 4000年も前に交易の路が繋がっていたのですから。

03 この写真は ユルン河(白玉河)の河原で おじいさんと孫が玉を探しているところです。
私たちが見ても どれが玉でどれが石か 全然わかりませんでした。
このユルン河と黒玉河は この先で合流してタクラマカン砂漠の中に流れ込んで行きます。
水量の多い年は 砂漠を横断してアクスの手前で タリム河と合流します。 この河は 冬には水が崑崙山脈で凍るので無くなってしまいます。
今でも この様に玉を手で探している人もいますが 上流では機械を使った大規模な採石が行われているそうです。

今では 中国の経済成長に伴って玉の価格も大幅に高騰しているそうです。 上質の大きな玉が一つ数百万円もの価格で取引されるそうです。
04 この写真は 私達観光客が必ず連れて行かれる玉の加工工場に展示されていた玉の棚です。
白や黒そして緑色などの玉があります。
でも 今は紛い物も色々とあるそうです。
特に 我々のような観光客向けに。

ですから だまされてもいいように安いものを買った方が良いと思います。

 そんな訳で 次回はホータン郊外のマリカワト古城などを見て更に東の砂漠公路の方に向かいましょう。

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2007年9月23日 (日)

シルクロード 西域南路へ

        崑崙山脈沿いの西域南路を行く
この西域南路は カシュガルから崑崙山脈沿いにタクラマカン砂漠を通っています。  途中で今はない楼蘭を過ぎて 敦煌に行き着く路です。
現在の 自動車の走る道や町の位置は 以前と比べると砂漠の増大によって崑崙山脈沿いに押しやられているそうです。
ですから 昔の遺跡は現在の路から北の砂漠の中にある事になります。
カシュガルからのこの路は 現在では国道315号線となっています。

       ホータンに向かう
現在の国道315号線を今度は 東に向かいます。最初の大きな町はヤルカンドになります。
現在では パキスタンとの国境の町タシクルガンにはカシュガルから車の走れる路が有りますが 昔はこのヤルカンドからタシクルガンに向かったようです。
この町では 昔からナイフが名産だそうで 我々日本人にも盛んに買え買えと薦めますが 日本への持込には注意が必要みたいです。
また このカシュガルからホータンに向かう路沿いは タクラマカン砂漠から吹く北風に砂漠の細かい砂が巻き上げられて ずっーと霧ような物が発ち込めています。 現地の人が言うには年間250日間位は そんな感じらしいです。
01_2  口の中が 砂ぽい感じを味わいながら 更に東に向かうと葉城(カルガリク)に着きます。
この写真は カルガリクの町の中心の路の分かれ目です。
この写真の上に伸びる路を行くと そこは国道219号線で 崑崙山脈を越えて 4000m程度のチベット高原に入りやがて ラサに至る もう一つの世界の入口と言ってもいいと思います。
 その距離は 8611mのK2の下を通って ここからおおよそ3000kmの長さです。

       ホータンの町に入ろう
国道315号線を 更に走って行くと視界を遮っている砂埃の中から 突然 国道の脇に露店が現れてきます。
そこは周辺は砂漠の砂だらけなのに 20件位建ち並んでいます。
柘榴の露店です。 すごいな て本当に感心してしまいます。
そんな店を通り過ぎて 大きなオアシスの街が現れてくるとホータンです。
02  西からホータンに入ると まず見えるのがカラ・カシ(黒玉)河です。 この写真は 黒玉河です。
現在のホータンの町は この黒玉河とユルン・カシ(白玉)河の間に拓けています。
ホータンは何と言っても 玉の産地として有名でしょう。

   砂漠の中に拓けた この大きな街のホータンの事や 玉の事などは
   そんな訳で また 次回にしたいと思います。     

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2007年8月19日 (日)

シルクロード カシュガルを歩く

前回 紹介しました街の北側に広がるウイグルの人達の居住地域は 今 急速な再開発で 後何年かするとなくなってしまうみたいです。
02 別に 何かがある訳ではないのですが 昔ながらの 人々の暮らしの匂いに接すると 生活の形の違いが有っても 奇妙に素直に納得してしまうのです。
今 カシュガルもまた 中国全土で行われている 再開発の渦に巻き込まれています。
前回出しました エイティガール寺院の前の 雑然とした活気ある物売りの広場も 綺麗なターミナルになってしまいます。

    ホージャ墳・香妃墓に寄る
03 カシュガルの観光では 必ずと言ってもよい程にこのホージャ墳は 訪れると思います。
緑色のタイルに囲まれた イスラム建築で 見ていると不思議な安定感を感じます。
ここに来ると 子ども達の物売りが 二つで二元の蝶のアクセサリーを売りに来ます。
別名 香妃墓と呼ばれるように 一つの伝説があります。 ここには 1760年に清朝の乾隆帝に北京に強制的に連行され 
妃になる事を拒否したために殺された 花の香りのする妃のための墓があると考えられたために その別名があります。
 このような話も 多分 イスラムの人達の 漢民族に対する一つの屈曲した気持ちが その底辺に有るように感じます。
 人口が37万人に成るような 大きな街の中心の人民路に面した百貨店(デパートと言うよりは)の前で 行き交う車を眺めながら そんな事をフット 思うのでした。

      カシュガルで今の中国を思う
中国を何度か 訪ねて来て感じる事ですが 漢族の人達は本当に毎年自信を深めているように思います。
凄まじい経済成長が その自信の根拠なのだろうと 色々な街の激しく変化して様を見ると 思えます。
このシルクロードの第一人者でもある 金子民雄氏は その著書「タクラマカン周遊」で ウルムチの事に付いて次のように書いています。
  
ウルムチ市内はさすが寝静まったのか、深夜営業の露店も姿を見せず、ほのかな街灯の明かりしかない。
   通りは人はおろか、猫の仔一匹通らない。これがものの数年後、日本の新宿か渋谷並みになるのだから、とても信じられない。
 と 書いています。  ウルムチの街は 本当に これが砂漠の先にどうして出来たのか? と思う程に大きな街です。
しかし そのような急激な経済的な成長は ある種の歪も作る気がします。
01 この写真のホテルは カシュガルにある 外国人や華僑や沿岸部の人達向けのホテルです。
この様な ホテルは街の中に幾つも有ります。

しかし ビックリした事に このホテルのある階のフロアが 全て男達の夜の遊び向けに管理されているのです。この様な事は このホテルに限らず このカシュガルの このクラスのホテルでは一般的な事らしいです。

中国が 1990年代になって社会主義市場主義と言う「政治は社会主義で 経済は資本主義」の路を歩み始めて 経済的な成功を得た事は間違いないと思います。しかし その路は 失った良い事も沢山あるのではないと 感じます。
 
  そんな訳で次回は カシュガルから中国-パキスタン国境のクンジュラップ峠に向かうのですが その前に 崑崙山脈沿いに西域南路を ホータンに向かいたいと思います。
 この西域南路は カシュガルと敦煌を結ぶ路で 途中 彷徨える湖ロプノールに沿って有った町・楼蘭を通ることになりますが 今回は そこまでは行きません。

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2007年8月15日 (水)

シルクロード カシュガルに来てしまった

       カシュガルに来てしまった て思う
アクスから国道314号線を 更に西にただ走って行くと 砂礫まじりの荒涼とした地帯が終わって 大きなオアシス都市が 忽然と現れると そこは この中国国内の シルクロードの一つの終点の カシュガルだ。

04 西安を出発して 蘭州から祁連山脈沿いの河西回廊を敦煌に向かった。 僕の個人的な感想では ここまでが 漢民族の世界だった思う。 そして 敦煌を出て まるで国境の峠みたいな星星峡を越えると そこはウイグルの民の世界だ。
トルファンからは 天山山脈の南の路を このカシュガルを目指して 西に向かう旅が続いた。 そこは 古い仏教史跡と 新しいイスラムの人達の世界だったと思う。
だから 一つの旅の目的地は このカシュガルなのだ。 一つの旅の終わり て感じではあります。 そんな時 嬉しい達成感と共に 終わってしまう虚脱感が有る様に 感じられます。

 僕の好きなライター 素樹文生さんの「上海の西、デリーの東」の最後は 
帰ろう     ふとそう思った。   飛行機を見ているうちに、いろいろなことを想像して、ひどく懐かしい気持ちがした。それから、ふいに心の底のほうから理性では抑えきれない何かが湧き起って、気がつくとそれが「帰ろう」という気持ちなのだ。
  と告白するように 旅は 出発と帰還の円運動に その本質が有るように感じられます。   だから カシュガルに来てしまったと 言う気持ちが 正直な所です。


       カシュガルはイスラムの世界
01 カシュガルは イスラムの世界だと思います。 このエイティガール寺院は この西域の中で 最大のイスラム教寺院です。
異教徒の私達も 中に入って 奥の礼拝所まで行く事が出来ます。
でも 心なしか 彼らの厳しい視線を感じてしまいます。
仏教の様に 礼拝の対象の偶像は有りません。 ただメッカに向かった祈りを奉げるだけです。
このエイティガール寺院の 左横には 地元の人達のための バザールと職人街があります

02 この職人街を歩くと 本当に 人は必要に応じて 何でも作ってしまうものだ と感心させられます。
我々が よくお土産で買うのが 赤ちゃんのおしっこのための 穴の開いた棒があります。
へぇーて思うような事です。

このカシュガルでは 人民公園に建っている毛沢東の像を見る事も出来るけれど 今 再開発で取り壊しが進んでいるウイグルの人達の昔からの居住地に行くと良いと思います。
 狭い通路の両側に 道を挟むように 2・3階建ての家が あります。  外から見ると こんな所で どう住むのか分かりませんが 中に入れて貰えると 日差しもよくて快適な住まいであることが 良く分かります。
 今 中国では それの何十倍もの再開発という破壊が進行している感じがします。

  そんな訳で もう少し カシュガルを見ながら 先に行きたいと思います。

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2007年7月 8日 (日)

シルクロード クチャからアクスへ

クチャの多くの石窟寺院や仏教遺跡は 興味の尽きない所ですが そろそろまた国道314号線を西に向かいたいと思います。
次の町は クチャから約240kmのアクスになります。その間にも 幾つかの小さなオアシスの町はあります。この地域のオアシスの町は 多くがイスラムの人達ですので 私達が良くし知っている料理に 羊の肉の串焼きのシシカバブーがあります。
羊の肉を30cm位の鉄串に刺して 香料や唐辛子などで味付けしながら焼いて食べるのです。 焼きたてはとっても美味しいですよ。多くの場合は 炭火で焼いていますが 本当はタマリクスで焼くと炭の匂いがしなくて もっと美味しいらしいです。
このシシカバブーは このシルクロードではナンと共に 本当にポピュラーな食べ物で ビールがあると本当に満足します。
では アクスに向かいながら 僕の関心の一つである 飛天に付いて考えてみたいと思います。

       飛天に付いて 考えた
仏教壁画や 仏像などに付随して現れる飛天に付いては クチャの五弦琵琶を持つ飛天や 敦煌莫高窟と法隆寺の壁画の飛天などで 触れてきましたがもう少し 飛天の事を考えてみたいと思います。
飛天の事に入る前に 仏像などの発生に付いて見てみたいと考えます。このことは これから更に西に向かいながら詳しく考えますが 簡単には 紀元前5世紀から紀元一世紀頃までは 仏陀を直接表現する偶像は作られなかったのです。 仏陀を表現するためには 法輪や仏塔(ストゥーパー)などが用いられたのです。
しかし 一世紀頃に 現在のパキスタンのガンダーラの地域と インドのマトゥラーで 突然仏像が 大量に生産され始めたのです。
この原因は まだ良く分かっていないみたいです。 何か 秘密が有るみたいで楽しいですね。 ただ 現在考えられるのは 仏教の大衆化と関係していのではないかと言う事みたいです。
その仏像に関連して 飛天の像や絵が現れて来ます。
05_6 この像は ガンダーラで2-3世紀の頃に作られた 「初転法輪の準備」と名付けられた物ですが 仏陀の頭上には 飛天ではなくエロスが飛んでいます。
このエロスに付いては また考えますが 5世紀にインドのサールナートで出土した「初転法輪仏坐像」の光背には飛天が二人になっています。
この有翼の人達の起源も 実は色々と複雑な背景が有るみたいです。
エロスなどのギリシャの系列は また先にして 飛天などの有翼の人達の起源はインドのヒンドゥー教の神話などになるみたいです。
02_7 この写真は クチャのキジル石窟の新一窟の7世紀頃の物です。飛天はインドの「リグ・ヴェーダ」に出てくるガンダルヴァ(乾闥婆・けんだつば)と言う半神が元になってるいるみたいです。
この元が 半神から全身人間像であったり半人半鳥の姿で現されたり 変化して行ったみたいです。
またこの半人半鳥では ガルダ(迦楼羅・かるら)の像もあります。
飛天は このように インドの古い神話などが元になっているみたいですが ガンダーラを経てシルクロード沿いに伝わって行くとその表現の仕方も変化して行きます。
04_5 クチャや敦煌での飛天は まだ男性的な飛天が多いのですが 更に東に行くと飛天は流麗な天衣を靡かせて 優雅に浮遊する女性的な表現に変化しています。
この写真は 奈良・興福寺の13世紀頃の像です。
その様な変化を感じて貰えると思います。
飛天のもう一つの多く現れる姿は 琵琶や排簫などの楽器を持った伎楽飛天です。 この楽神と言う性格は やはりインドのガンダルヴァから来ているみたいです。
そんな訳で どこかで飛天が飛んでいるのを見かけたら 参考にしてください。

飛天を考えていると アクスが近づいて来ました。
アクスの町は 理路整然と作られた砂漠の中の町です。
01_8  この町に立って 夕暮れ近い日差しに作られた長い影を見ていると 本当に一日が終わるんだ て言う気持ちにさせられてしまいます。
でもこの頃で 北京時間に合わされているので公式には午後9時頃になっているのです。
我々からみると やはり無理が有ると思うのですが。

そんな訳で 次回は 更に西のカシュガルに向かいます。

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2007年6月17日 (日)

シルクロード クチャで色々考える

         石窟寺院の中国の西の淵
このクチャは 現在の中国の中では石窟寺院の西の淵になります。 当然 この先の地域にも小さい石窟は有りますが このクチャで大々的に作られた様な石窟寺院は 見当たりません。
石窟寺院は 元々はインドの西部のムンバイの外れの山中で 前一世紀頃から部派教団(小乗仏教)によって作られたと思われています。この 石窟寺院は チャイティア窟(ストゥーパーを持つ礼拝施設)とヴィハーラ窟(出家僧の施設)から構成されています。
この石窟寺院の伝播は この後 現在のアフガニスタンのバーミヤンに伝わり更に北進したものと ガンダーラからクチャ・トルファンそして敦煌に伝わった物と思われています。
前にも書きましたが キジル石窟での炭素年代測定法では古い窟は紀元一世紀まで溯れるとの研究もあります。 そうすると インドでの宗教施設がたかだか二百年という速さで この砂漠のオアシス都市まで伝わったことになります。
 この後 しばらく石窟と離れますので もう少しクチャにある石窟を見てみましょう。
03_6 この写真は ムザルト河の横に拓けたクムトラ石窟ですが 写真では窟の入口が小さくて 良く分かりませんね。 このクムトラ石窟は キジル説窟が飽和状態になってしまった五世紀から造営が始まったみたいです。
このクムトラ石窟で有名なのは クムトラ六十九窟の講経堂で玄奘が 説法を行ったとされています。
クムトラ石窟に行くと 五連洞として見られます。そして ここには まだ解読が進んでいない亀茲文字が刻まれています。
良く分からない事が あると 少しわくわくしてしまいます。

       では 玄奘の西に向かう路はどこだったのか?
このシルクロードを訪ねるときに 入竺求法僧と言われるインドに仏教の教えを求めて行った中国の僧侶達の足取りは 関心の引かれる事ではないでしょうか。 現在でも これらの人達の足取りを辿って シルクロードを行こうという試みを聞くことがある位です。
これらの僧侶の中でも 足取りなどを書き残した法顕(400年代)・恵生(500年代)そして玄奘が有名です。  その玄奘の足取りが 実はこのクチャを出てからどの路を通って天山山脈を越えてサマルカンドそしてガンダーラに行ったのか。
現在考えられているのが 西に向かいこれから行くアクスーを通ってトクスンそしてペダル峠を越えたと言う説と 塩水渓谷などを抜けてムザルト峠を通って天山山脈を越えたと言う説です。
 どちらにしても もう良く分からないみたいですね。
 それにしても オアシスの町を抜けると荒果てた砂漠とチャール・ダグ(不毛の山)と言われるこの地帯を 歩いて行ったと思うと 本当にその情熱の強さに関心してしまいます。

      そして今のクチャは ウイグルの人達の町
13 クチャの町は 現在では90%がウイグル族の人達で宗教は イスラム教です。
このオアシス都市の歴史的な民族の変遷は 余りにも複雑なので 今は 省きたいと思います。
しかし 先日の読売新聞の小さな記事に有ったように 今でも「ウイグル人活動家 中国で無期懲役に」と書かれる様な事が続いているのです。
この記事の内容だけでは 余りにも短いので分かりませんが 今でも この地では中国からの独立運動が 続いているのだと言う事を シルクロードを旅する私達も忘れないようにしたほうが良いと思います。
 民族の問題は 歴史的にも本当に根が深くて 更に宗教の問題が絡むと 僕などは 言葉を失ってしまいます。
一体 何時になったら 人間の愚かとしか言いようの無い戦いはおわるのでしょうか?

   では 次回は アクスーに向かいたいと思います
 

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2007年5月 6日 (日)

シルクロード クチャで仏教遺跡を見る

クチャでは 前に触れたように本当に多くの遺跡を見る事が出来ます。 前回見たキジル千仏洞は本当に興味の尽きない所ではあります。 キジルの中心柱を右遶行道(右回りする)の礼拝のやり方は この後 敦煌や雲岡石窟のスタイルに影響を与えて行ったと考えられています。
また 壁画に大量に使われた蒼いラピスラズリは この地から更に西の現在のアフガニスタンとの交易の 活発さを強く感じさせます。
そんな訳で クチャの郊外に広がる他の仏教遺跡を見て行きたいと思います。

       スバシ故城は好きだ
クチャの郊外にあるスバシ故城は 千仏洞と違って寺院の跡地です。

02_6 この寺院の大きさは クチャ河の東西にわたり1.5kmにもなる大きな所です。
創建は三世紀頃と推定されていますから ほぼキジル千仏洞と同じ時期になります。
玄奘が 大唐西域記で書いている「川の東、西には二つの伽藍あり昭怙厘と称す」と言うのがスバシ故城ではないかと言われています。
この写真は 仏塔の崩壊した所です。 この仏塔は 階段状の物を使って上部に行く事が出来ます。 また この仏塔の基壇の部分に 嬰児の頭蓋骨を持つ女性のミイラが埋葬されていて その様な埋葬方法をどうしてしたのか 今でも大きな謎になっています。  良いガイドさんにあたると 埋葬の場所まで教えてくれます。右の写真は クチャ河の西部から東部を見た所です。拡大して貰うと東の方の丸い仏塔が望めます。
最近は この東には 観光客の立ち入りはかなり制限されているそうです。


01_7
この荒果てて一本の樹もみえない寺院や 僧房の跡地に座っていると ここで何千人かの僧侶が祈りをしていた事も 何時かは この様に朽ちて行くのだと つくづく思うのです。
それは 僕にとっては とても好きな場所ではあります。

       クズルガハ烽火台の伝説
これもクチャの北になります。この烽火台は 漢の時代と言いますから 一世紀前後になります。現在の高さで15m前後と言われています。
11_2
作られた頃は20m以上は有ったのでしょう。この烽火台は 長城の建設と不可分な関係があるみたいですが こんな西から一体 何処まで どんな情報を伝えようとしたのか 興味深いですね。
この烽火台には 伝説があって 王の娘が「100日以内で死ぬ」と言うのと 現地のガイドは「18歳の誕生日に死ぬ」と盲目の占い師が言ったので 王は王女をこの塔の上に隠した。しかし 誕生祝のリンゴの中にいた毒蛇に噛まれて 王女は死んだ。
このリンゴと蛇の話は 女と男の悲劇の話の昔からの一つの形ではあるみたいです。

      玄奘も歩いた塩水渓谷
10_2 玄奘のインドに向かう足取りは このクチャの先から実は 良く分かっていないみたいですが クチャの北にある この河を歩いたのではないと思われています。
昔は 当たり前ですが現在のような道は有りません。このために この写真のような平らな所を選んで歩いたのでしょう。名前のとうりに 河の水を飲むと塩の味がするのは 岩塩があるからです。しかし 雪解け水が一時的に流れて来て キャラバンの商隊などが流された事も有って 今でも川底に古銭など有るそうです。  僕は 見付けられませんでした。

  まだまだ クチャでは見るところが有ります。
  次回は もう少し千仏洞などを見ましょう。
  それに 現在のウイグルの事なども 少し考えてみます。

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2007年4月 8日 (日)

シルクロード クチャでキジル千仏洞を見る

        クチャは千仏洞の宝庫です
クチャ郊外には 多くの千仏洞が散在しています。今回訪れる キジル千仏洞のほかにも クズルガハ・クムトラ千仏洞や未公開のシムシム千仏洞などです。これらの千仏洞の造営の時代は 様々な見解が有るようですが 大体三世紀から八世紀にかけて行われたようです。
キジルでの炭素年代測定法によると 紀元一世紀までさかのぼると言う調査結果まあるようです。
この千仏洞の事を 別に石窟とも呼びます。しかし インドの岩山に刳り抜かれたアジャンター石窟などとはかなりその材質が異なっています。
現在の中国の中のシルクロード沿いに有る 多くの千仏洞の石窟は石と言うよりは砂礫の山の断崖に作られています。ですから 砂礫の山に穴を掘り込み 壁面に土と漆喰で補強されて 作られています。
ですから 強度はとても弱くて 多くの千仏洞では その前室の部分が崩落しているのを見かけます。また 二十世紀に入り日本や欧米の調査隊が壁面を剥ぎ落として掠奪して 砂礫の地肌がむき出しになっている所もあります。
十四世紀からのイスラムの人達の像や壁画の破壊と共に 見ていると悲しくなる事もあります。

      では キジル千仏洞を見ましょう
06_4 キジル千仏洞での礼拝堂の作りは 大体同じ作り方らしい。
まず 入り口の「前室」があり その奥に主室がある。主室に入ると その前面にこの写真の中心柱がある。この中心柱には 正面に龕がうがたれており
その中には 釈迦像が祀ってあった。
この写真でも その後が像の後ろの光背でも分かると思います。
今 キジルでは 1975年に新たに発掘された「新一窟」の涅槃像以外には 塑像は全て破壊されている。(この涅槃像も 既に頭部は崩れ落ちている)
だから 僕らは この千仏洞に入って見ていると不思議な感じになってしまう。
この 中心柱の側廊を左から右回りをして行きます。 中心柱の後ろが 後室で そこには涅槃図が描かれています。 この涅槃図を見て主室に戻ると 主室の上には弥勒菩薩が描かれています。 
この流れは 仏との出会いと別離 そして再度の出会いを示しているのでしょう。07_4

壁面には 青い顔料に彩られた菱形の中に千仏図や本生故事などが描かれています。
この青い顔料は キジルから3000kmも離れたアフガニスタンでしか産出しないラピスラズリです。
シルクロードの交易網の凄さを改めて感じさせます。
菱形は 須弥山を象徴しています。
私達日本に関係している事で有名なのは 現在ではその現物が日本の正倉院にしかない と言われている五弦琵琶です。 
14_1
キジル第八窟に描かれている この絵の飛天が持っているのが五弦琵琶です。
キジルの壁画に描かれている飛天は 良く見ていると女性的な飛天ばかりではなくて 男性的な飛天も見かけます。

そんな訳で キジルではまだまだ見る物が沢山あります。
でも とりあえず 他の千仏洞も見ながら このクチャの仏教の昔に付いて思ってみたいと考えます。
     

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2007年3月11日 (日)

シルクロード クチャを歩く・1

                砂漠公路からクチャの町へ
砂漠公路から国道314号線に戻ります。砂漠公路をそのまま 更に北に向かうと 砂漠の中で夕焼けが見られます。乾燥した地帯での夕焼けは またとっても感動的な一瞬ではあります。 日本で見る夕焼けと違って 
西の空全面が夕焼けになります色合いは 日本の夕焼けほど色の変化はなくて 空全部が夕焼けだ て感じになります。そして 日本の夕焼けは ちょっとだけ て感じで終わってしまいますが 砂漠ではとっても長く続きます。
でも 今は まずクチャに向かいたいと思います。
09_2 国道をクチャに向かう道の脇に まるで雪が降ったような白い所を見かけます。
これは でも雪ではありません。
砂漠の中から出てきた塩です。 そんな風景を見ながら幾つかのオアシスを過ぎて クチャの町に入ります。

        クチャは仏教都市みたいだ
クチャの現在の町の郊外には 多くの仏教遺跡が偏在しています。主だった所だけでも
キジル・ クズルガハ・ クムトラの千仏洞があります。
また クチャの中でも僕の好きな所の一つの 荒果てた
仏教遺跡のスバシ故城も とても素敵です。
そして クチャの郊外には更に
クズルガハ烽火台や塩水渓谷などの観光スポットが点在しています。
このクチャの町と仏教との関連では 「妙法蓮華経」の漢訳を行った鳩摩羅什の母の出身地です。鳩摩羅什の母は 当時のクチャ(亀茲国)の国王の妹でした。母は鳩摩羅什が生まれると 出家してしまい彼と一緒にインドそしてガンダーラで修行します。鳩摩羅什は 当時オアシス都市で盛んだった小乗仏教ではなくて ここで大乗仏教の龍樹の教えに接することになります。
彼は 大乗の教えに傾倒して行きますが 三十五歳の時に戒を犯したと言われています。401年に後秦に迎えられて長安に入ります。
鳩摩羅什は ここで学僧に大乗経の教えをしますが その講義を始めるごとに弟子達に その苦しい胸の内を次のような言葉で表したと言います。
 「例え臭泥の中に蓮華を生ずるがごとし。 ただ蓮華を採りて臭泥を取ることなかれ」と。

05_5 現在 キジル千仏洞の前の広場には 何か悲しげな 物思いをする鳩摩羅什の像が建ってします。
このクチャの町に その仏教が伝わったのは おそらく紀元前一世紀頃ではないかと言われています。
それから500年後の鳩摩羅什の時代には このクチャには僧侶の数はおよそ一万人と言われています。
また七世紀にここを訪れた玄奘は 寺院百余ヶ所僧五千余人で 小乗仏教の説一切有部の教義を学んでいると記しています。
それにしても 当時のここの人口が多くても十万人ですから その僧侶の数の多さは 少し突出していると言えます。 それは 祈りの強さではありますが 反面 当時の人達の生活が祈りを それ程に欲すほどに過酷であったのではないかと 勝手に思ってしまうのです。

 では 次回から このクチャの町の郊外に広がる仏教遺跡などを見て行きたいと思います。 
 見るものが 一杯ですよ

 

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2007年2月11日 (日)

シルクロード砂漠公路に寄り路

      ちょっと砂漠の中に入ります。
01_6 今まので路は、天山山脈の南側を走るシルクロードの天山南路を過ぎて来ましたし、これからも行きます。
しかし、前回の街コルラから次回の街のクチャの途中に、右の地図に有る様にタクラマカン砂漠を横断する砂漠公路があります。
砂漠を横断する路は、昔から幾つか有ったみたいです。その路は、崑崙山脈の雪解け水で作られるホータン河沿いなどの自然条件を活かして作られた物ですが、この砂漠公路はドォーンと直線的に作られた物です。
では何故こんな物が作られたのかと言うと、現在の中国ではこの西部地域での油田開発を急いでいて、タリム盆地やジュンガル盆地で採掘が行われています。この砂漠をドォーンと行く路は、その運送路なのです。その意味では、現在のシルクロードとも言えます。
しかし、この地域の昔からの住人であるウイグルの人達から見ると、自分達の大切な資源の収奪という見方も一部ではされています。

        砂漠公路での観察
05_4 と言う訳で、路の入り口には旗を立てた門が作られています。
写真の右脇の所に少し写っている所に石版が有って「砂漠石油公路 0km」と書いてあります。
日によっては、この辺りに来る観光客目当てにウイグルのハミ売りのおじさんなどがいます。
08_4 砂漠公路に入って、暫く走るとタリム河を渡ります。このタリム河は、その下流に「さまよえる湖」ロプ・ノールを作ったとヘディンは考えていました。コルラで見た孔雀河(コンチニ河)と砂漠の中で流れを時期によって混ざったりして湖を作っていたみたいです。タリム河上流も面白いみたいですが、その話はまた先にします。

      砂漠で草や樹を見る
06_3 砂漠は、当然ですが降雨量が極端に少なく乾燥しています。そのような条件は、植物の生育にはとても厳しいものです。ですから、自生の樹としては、この写真にある胡陽の樹が眼に着く程度です。この胡陽の樹は、楼蘭などの遺跡で見つかったミイラが入っていたお棺にも使われています。でも、当然ですが砂漠に強いと言っても水が必要です。ですから、地下水脈沿いに生えているのだと思います。
03_5 04_4 砂漠で強く生きている草では、この写真のラクダ草やタマリクスです。葉っぱと言うよりは、緑の茎の塊みたいに見えます。
これが砂漠の強い風に健気に耐えている姿は本当に関心してしまいます。でも、砂漠の砂は、この上に積もって来て土の塊みたいになってしまうのです。

 07_3
砂漠公路を、もう少し走って行くと、僕らが想像している「これが本物の砂漠」て風景に出会う事が出来ます。

でも 今回の目的地はクチャですのでこの辺で引き返してクチャに向かいたいと思います。
砂漠公路の先にある西域南路の話はカシュガルからの寄り路で、行ってみたいと思います。
  クチャは、シルクロードと仏教にとって、敦煌と同じように大切な所だと思います。   では、また次回。

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2007年1月14日 (日)

シルクロード コルラの街で

       コルラの街は街道の交差点
シルクロードを旅して来ると 何か必ず歴史的な遺跡などが何点か残されているのに このコルラは郊外の鉄門関以外には 観る物はほとんど無いのではないでしょうか?
どうしてなのかは良く分かりませんが 現在は街の中央を流れる孔雀河の周辺にシッカリとした街が広がっています。
07_2 このコルラは 地図で見ると良く分かりますが天山南路とウルムチから天山山脈を横断して タクラマカン砂漠に向かう路の交差点になっています。
その意味では 地勢的には重要な地点にあると思います。
そして 現在ではタクラマカン砂漠で産出している石油の集積地やそれに付随する機関の所在地として 発展しているそうです。
このタクラマカン砂漠での石油の採掘に伴う 砂漠横断路に付いては また 後日報告いたします。
 それにしても 大きな街の 大きなホテルで日本に電話を掛けてました。何度やっても通じないので フロントで聞くと国際電話は時間制限があるとの事で待っていました。 時間になって また電話しても通じません。またフロントで聞くと今は故障だと 言われました。
 まあ そんな事が多いのです。 ここは オアシスの町なのですから。

      観光地 鉄門関を見る
05_2 この写真の奥にあるのが 鉄門関です。鉄門関は 関所だそうです。
この写真の右側は コルラの中央を流れていた孔雀河の上流になります。
水量は かなり多い感じがします。
写真の奥の方が 岩山になっていて昔のシルクロードが この関所を通って コルラの町に孔雀河沿いに通っていたそうです。
でも 僕ら日本人にとっては このような川沿いの木々と 岩肌丸出しの山の取り合わせは 何か奇異な感じを受けるのではないでしょうか?
通り過ぎて来た 黄土高原などの木々の少なさは 最近の研究では豊かな森の乱開発の結果だと聞いた事が有りますが この付近の岩山は降雨量の少なさだけが原因なのでしょうか?
 
   色々と考えさせられる事も多いですが 先に進みたいと思います。
   次回は 四世紀頃の中国の仏教の発展に大きな寄与をした鳩摩羅什の母
   の出身地のクチャに向かいます。クチャは 見る物もとっても多いですし僕
   は好きな町です。
   でも クチャに入る前に タクラマカン砂漠の横断路の 砂漠公路に行って  
   みたいと思います。  では また次回。
   

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2007年1月 3日 (水)

シルクロード コルラに向かう

       回民食堂で 昼飯を食べよう
トルファンを出て西に向かう国道312号線沿いで昼飯を食うためには 大体の場合は 現地の回民食堂にお世話になります。 回民食堂とは 回族(中国語を話すイスラム教徒)のための食堂と思っていいのでしょう。  ご存知のように 回族人達は イスラムの教えで不浄と言われている豚肉は食べられません。
01_4 この写真のように 大きな看板を掲げていますので すぐ分かります。写真を拡大して見てもらえば分かるように「回族飯館」と書いてあります。
ここで出される食事は ナンなどの他には大盆鶏と言う ウドンに野菜炒めみたいな物を混ぜ合せて食べる食事がほとんどです。
少し 作る所を見てみましょう。
02_5ねぎやピーマン、白菜などにトマトが入り肉は 羊の肉を使います。また 唐辛子で辛味をつけます。
この野菜炒めみたいな物に 別の皿に盛ったうどんが出てくるので それをからめて食べます。
03_4 写真で見ると こんな感じに仕上がっています。我々 日本人向けにはお願いすれば 余り辛くない物とか 作ってもらえます。 食べる時には 気になるようでしたら 茶碗などは 自分でもう一度拭いてから 食器は使いましょう。
04_3 食堂の裏は トイレになっています。
漢族の人達は よく言いますが 入れたら 出す とそれが この乾燥した地帯では 何か当たり前の事のように 感じられます。
トイレと言っても 建物などは無くて ただ 乾いた汚物が転がっているだけです。
それにしても この少女のように勉強している姿を見ると 人は何処でも生きて行けるんだて 当たり前の事に 感心してしまいます。
トルファンから コルラに向かう路は 本当に荒涼とした風景が続く。
その荒涼とした風景が何キロか続くと 小さいオアシスが点在している。 そして また 荒涼とした乾いた風景が続く。 そんな事を何時間も繰り返して行くと
突然 水の溢れた地域に到着します。

    砂漠で 湖を見つける
06_1 コルラの手前 カラシャールの東には大きな湖のボストン湖があります。
大きさは 琵琶湖の1.5倍と言われていますから とても大きい湖です。
このような大きな淡水湖の存在は 多分 この地域を巡る支配権の抗争を激しくしたのではないでしょうか?
その辺は 良く分かりません。 ただこのボストン湖畔は かって名馬の産地だっと本には書いてあります。
湖には 背の高い葦が一面に生い茂っています。 今は ボートで観光する事も出来ます。 でも こんな砂漠に来てボートで湖を走るなんて 考えもしていなかったのですが。

では 次回はコルラの街にむかいましよう。

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2006年12月24日 (日)

シルクロード ウルムチへ寄り道

     ウルムチへの寄り道
シルクロードの地図を見て貰えると分かりますが 私達の旅して来たハミ-トルハァンそしてその先のコルラと言った 天山南路からウルムチは外れています。天山北路の一部と言ってもいいと思います。 このウルムチが新疆ウイグル自治区の区都(県庁所在地)になっています。
 行って見ると 本当にこんな大都市が シルクロードの中にあるんだ て 驚いてしまうし 本音の所では 街に出会えて良かったて 気にもさせます。

     トルファンからは高速道路もあります
このトルファンとウルムチを結ぶ地帯は 天山山脈が 断ち切られたような地帯なので 南北の砂漠の関係か 風が本当に強い地帯です。 高速道路をバスで揺られていると分からないけれど 外に出て風に当たると良く分かります。
22 トルファンは海抜24mと低い盆地から 700m位のウルムチに向かう途中に 1930年代に起こった回教徒と漢族のウルムチ守備隊との決戦場がある。
達坂城と書くが 漢語の坂は 日本の峠と言う事らしい。 何気なく通り過ぎて行く風景の向こうに 余り語られないままに埋もれた 凄まじい数の殺戮が有ったのだと フト思います。この様な事は つい数十年前の事で 問題の本質は現在でも抑え込まれてたまま潜在化しいるのです。
写真は 達坂城のあたりです。
この路を ウルムチに向かう右側にボグド・オーラ(海抜5445m)を見る事が出来ます。

   大都市ウルムチに入る
21 この写真は ウルムチの観光名所の紅山公園から見たものです。
街の中心部には 高層建築が幾つもみられます。
ショッピングセンターで買い物に行っても 沿岸部の街のお店に見劣りしません。
どうしても 地方色(?)に会いたければ人民公園などで行われる朝市に行くと面白いですよ。  太極拳をしたりダンスをしたり ホント中国の人達の活力を感じてしまいます。 また 野菜などの朝市も面白いですよ。
 ウルムチでの見所の物は シルクロードとの関係では 忘れてはならないのは新疆ウイグル博物館です。 ロプノール河畔で見つかった「楼蘭美人」と言われる4000年前と思われるミイラなどがあります。
  薄暗い 博物館の中で 黙々と何体も並ぶミイラを観ていると あぁ人はこうなるんだ と奇妙に納得してしまうのでした。

  そんな訳で また 天山南路に戻って コルラに向かいたいと思います。 

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2006年11月26日 (日)

シルクロード トルファンに玄奘を

    求法僧・玄奘とその時代
トルファンの観光名所で有名な物の一つが トルファン郊外の高昌故城です。この高昌故城でも 特に観光名所なのは 玄奘が説教したという故城内の寺院跡ですが この話に入る前に 玄奘がインドに求法の旅に出た時代背景を 見てみましょう。
  玄奘の前にも 多くの求法僧はいました。 特に有名なのは 法顕(337 -422)ですが 彼の事は 蘭州 炳霊寺の壁画の署名でも触れたとうりです。
玄奘は600年の生まれと言われています。玄奘の傾注していた教えは 大乗の教えの中でも難解な 唯識という 形而上学的なものです。 僕も 触りましたが ほとんど理解出来ませんでした。 その教えの深化のために627年 インドに向けて長安を出発しています。 僕らが通って来た 河西回廊を抜けて このトルファンに入りました。 この600年頃の この地帯は ではどの様な状況だったのでしょうか?
  これが また 諸国入り乱れた 割拠の時代です。
簡単に見ると 南には 青海地方に本拠を持つ吐谷渾が勢力を持ち また 北には 騎馬民族の西突厥が 敦煌以西を支配していました。
 本当に 危ない時代に 玄奘は インドに旅立ったのです。しかし 勢力が 安定していれば 旅行者にとっては 一番良いのです。
 こんな時代に シルクロード沿いのオアシス都市は 本当に激しい興亡を繰り返す事に なるみたいです。

      トルファンで 玄奘は一ヶ月間いた
当時 トルファンは麹氏高昌国(漢族系)が支配していた。 この国の王の強い要請を受けて 玄奘は 「仁王般若経」を 講義したと伝えられています。
14
 ここは 高昌故城の 寺院跡です。
ガイドの説明では ここで 講義された事になっていますが 本当は どうなのでしょうか?
 観光客目当てに 整備が 進められています。
 どこでも 僕らのような観光客(大部分は 日本人です)を相手に 綺麗にしてしまうのは 興醒めな事です。
 しかし この麹氏高昌国も 玄奘が去った後の 640年には唐によって滅ぼされてしまうのです。

       ベゼクリク千仏洞は 廃墟だと思う
06 このベゼクリク千仏洞は 6世紀から14世紀にかけて開かれた物です。 しかし 幾つかの千仏洞を見て来た人には 廃墟に思えるのではないでしょうか?
14世紀には イスラムによって削り取られ 近代に入ってからは 日本やヨーロッパの人達によって切り取られてしまったからです。人間は 進歩しているのでしょうか?
 

  そんな訳で トルファンは 見もの一杯!なのですが そろそろ先に進みたいと思います。
 次回は 天山南路を 少し外れて 西域最大の都市の ウルムチに寄ってみたいと 思います。 また 玄奘の話は この後も 続きます。

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2006年11月19日 (日)

シルクロード トルファンの故城

トルファンの郊外には 二つの故城があります。私達 日本人の感覚の故城て 文字どうり 古いお城ですが この地の故城とは 城壁都市を意味しています。日本では 環濠・城壁を持った町は弥生時代から 古墳時代の一時期に表れて その規模も 吉野ヶ里などを除くと 大きな規模の物は有りません。 そして それらを日本では 古城とは呼びません。
 ここでは このような城壁都市の廃墟を 故城と呼ぶのです。  なんか いい感じですよね。
トルファン郊外には 「高昌故城」と「交河故城」があります。しかし この地のこれらの故城の歴史は ホントに複雑です。 個々の 古城に付いて見る前に この地に大きな影響を与えた 1―4世紀頃の 中央アジアの状況を 見ておきましょう。
 突然ですが モンゴル高原です。
1世紀頃 モンゴル高原を支配していた騎馬民族 匈奴は強大な力を持っていたが 東西に分裂してしまう。 西匈奴は その後5世紀頃まで 西へ移動して行く。所謂 フン族の侵略と呼ばれ それが ゲルマン民族の大移動の原因になっている。一方 東の匈奴は 一世紀頃内紛で南北に分裂してしまう。南匈奴は 後漢に帰順する。その後 北匈奴は 後漢に攻撃されて崩壊してしまう。しかし 220年に後漢朝が亡びて 晋朝の頃になると漢人と匈奴やチベット系などの異民族の混住が始まります。そして この異民族を 傭兵として用いました。 この結果 力をつけた異民族は 独立を望み それが 4世紀からの五胡十六国時代になって行きます。
そして 336年 漢族の前涼がトルファンに高昌郡を設置したのです。
ですから とっても長く 複雑な民族や王朝の歴史があって 良く分からなくなってしまう事があります。

       では 交河故城を見ましょう
10_1  この上空からの写真を見れば 明らかなように この都市は 両側が川になっています。川から高い所では30mもあります。
この台地を活用して 街を作ったのです。この街の作り方は 一般的な作り方である 日干しレンガを使う方法ではないのです。
この街は 黄土の乾いた土地を 下に掘り下げる方法で 繰り抜いて 作ったのです。 ですから 何か独特な雰囲気を作っています。
11_1 一体 この街には 何人位の人が どんな生活をしていたのでしょうか?
 歴史としては 前漢のころから 遺物では13世紀頃まで 使われていたみたいです。
 今は 誰も住んでいません。

僕は この荒果てた雰囲気は大好きですが。

     高昌故城は 玄奘が訪れました。
高昌古城は 玄奘が40日間も 滞在したらしいです。
その辺は また 次回に 譲ります。 
 

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2006年11月12日 (日)

シルクロード 仏教東漸の路

     シルクロードは何を運んだのか?
この辺で 一度 シルクロードは一体何を運ぶ路だったのか を考えてみたいと思います。名前のとうり 中国から西にシルクが運ばれたのは間違い有りません。 しかし 歴史的にはシルクの交易より遥か以前に 玉の交易路として発達したと 考えられています。 紀元前1600年頃の殷墟から ホータンからしか産出しないと見られる 玉が大量に出土しているのです。殷墟は 西安より東ですから ホータンとの直線距離にしても3000km以上も離れているのです。
現在でも 中国の人達にとっては 玉は魔除けとして好まれているそうです。
このように 石が遠方に運ばれるのは 玉に限った事では有りません。 日本でも 石器の材料としての黒曜石は 神津島で産出した物が新潟まで運ばれています。
一方 西の方にはアフガニスタンで産するラピスラズリが遥かエジプトへ運ばれていました。
これらの交易路が 時代とともに一体化して 一連の交易路になっていったと考えられています。紀元前1000年頃にエジプトなどのオリエント文化の天文学が中国に流入していたと 考えられています。
自動車などが無い時代に こんなにも長い距離を 品物や文化がこのように流通していたなんて 人間の貪欲な欲望と言うのか 向上心て言うのか 凄まじいですね。 

    この路を 通って仏教は東に向かった
インド東部のブッタガヤで 紀元前6世紀にガウタマ・シッダールタが説いた教えを基にして仏教が成立した。 カースト制度を実体的とするバラモン教に対する 一種の宗教改革という側面もある。
当時の人々の多くは 極貧の中で 慢性的な飢えと病に晒されていた。 多分 現代の僕らには 想像する事も困難な位なのではないだろうか。
その現実に 仏教の教えの元があると考えていいと思う。 これは その後の仏教の分派としての大乗とか小乗とかの前に あると思う。
それらの 教えは大乗の教えは 紀元前3世紀頃に ガンダーラに伝わり その後に紀元1世紀頃にシルクロードを通って トルファンなどに伝播したと考えられています。 一方 上座部仏教はセイロンを経て 東南アジアに広がりました。
 この教えが 更に東に中国に入った正確な時代は 分かっていません。 大体 後漢明帝(57-75)の頃ではないかと 言われています。
一方 日本には 正式には欽明天皇の時代の538年と言われています。インドから 約1000年を経て 日本に来たのでした。
 でも その間に 仏教の教えは どの様に変質してしまったのか? は また 別の所で考えて みたいと思います。

 この路を 東から更に西に 昔の法顕や玄奘のように向かってみたいと思います。 そして この砂漠の路を次の様に 書いています。
    上に飛鳥なく  下に走獣なし。   四顧茫々として  おもむく所を測る莫く、 唯だ日を視て以て東西になぞらえ、 人骨を望んで以て行路を標するのみ。  しばしば熱風悪鬼あり。 之に遇えば必ず死す。
    昔は 本当に 大変な所だったのに 今は クーラーが効いたバスで行ってしまうので 何か全然実感が わかないのでありますが。

11 まあ そう言う訳で 熱い時は 何と言っても ビールです。
ご当地の ビール 新疆ビールは とっても飲み易いので ついつい 飲み過ぎてしまいそうです。

さて 次回は もう少し トルファンを見ましょう。

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