2009年9月23日 (水)

シルクロード スストからフンザへ

          カラコルムハイウェイを走る
国境の町 スストで入国の手続きをしてカラコルムハイウェイを更に走ります。 前にも書きましたが ハイウェイなどと言いますと私達は 車がスイスイト走れる舗装道路を想像しますが この道は違います。 舗装はされていますが かなり痛んでおり 車の擦れ違いをするのも苦労する所もあります。
ナンと言っても このスストからフンザ方面はまだ厳しい山岳地帯です。 8611mのK2を含むカラコルム山脈と 7708mのティリチミールを含むヒンド―クシュ山脈にはさまれている厳しい山岳地帯をすり抜けて走っています。  また その山々の間には 幾つ物の深い氷河地帯があります。
だから 道の所々には岩の間から氷河の融けた水が 勢い良く噴出している所があります。 冷たくて 美味しいですよ。

         フンザの中心の町カリマバード
スストからおよそ70km位でフンザの中心の町のカリマバードに着きます。 この町の高度も 4943mのクンジュラブ峠からかなり降りて来ましたが まだ2400m位あります。
私達は この道を舗装が痛んでいるなどと言いながら それでも 車で楽して旅行出来ます。 しかし これがシルクロードの交易路としても有った時の事を考えると本当に大変な路だなと 当時の人達の事を感心してしまいます。
01 この写真は フンザ川沿いに広がるカリマバードの郊外を写しています。
このフンザ川も 下流に行ってギルギット川などと合流して インダス川の上流となります。
写真の中央から やや左側に小さく写っているのが7788mのラカポシだと思います。
このカリマバードの一帯は 「風の谷のナウシカ」のモデルの地域だ などと言われると 何か そんな感じになりませんか?

夕方に この谷間にイスラム寺院のミナレット(尖塔)からアザーン(礼拝の呼びかけ)が流れます。  それを聞いていると 本当に遠くの国にやって来たな と嬉しくなります。
 でも 私の泊まったホテルでは ビールが飲めた様に思えたけど 勘違いかな。  この先は 本当に酒は普通は 飲めなくなります。イスラムはアルコールが禁止されているのです。

    そんな訳で この先はだんだんと 仏教遺跡もまた 現れてきます。
   そして また 原始仏教に付いても また考えていきます。

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2009年8月 9日 (日)

ウルムチの戦いに付いて

   

        ウルムチの戦いは何なのか
先月のウルムチにおける 激しいウイグルの人達の戦いは私達シルクロードを旅する日本人に 一体何を示しているのだろうか と 何度も考えている。
そして その戦いの後に 多くの漢族人達が手に手に斧などを持って街頭を進んで行く映像を見ると 更にとても大きな衝撃を感じてしまうのです。
このウルムチを含む中央アジアでは かって と言ってもそう遠くない頃まで幾度となく惨劇が繰り返されて来ました。
長澤和俊氏の著書「シルクロード」でも その最終章で次のように述べています。
     こうした近代化は、東トルキスタンではやや出遅れたものの、
     今日ではほぼ同じように躍進を続けている。しかし、ここに
     いたるまでには、多くの血で血を洗うような惨劇が繰り返さ
     れた。
金子民雄氏の著書「天山北路の旅」では1860年代の東干(トンガン)の反乱に関して詳しく書いて有ります。この著書によると天山北路沿いにある都市イーニンの郊外の恵遠城に対する1866年4月の回族の攻撃に付いて次のように書いています。
    ついに東干は恵遠城の攻撃にうつった。彼らはまず城の楯の部分を二つ、城門一つを撃破することに成功し、たちまち城砦になだれ込んだ。そして、男も女も子供たちも、生きているものは無差別に虐殺した。中国人たちは自分の家族をまず殺してから、自殺した。あらゆる満人たちが将軍の宮殿に逃げ込み、絶望的な勇気を振って攻防したが、この戦いに降伏というものはなかった。殺すか殺されるかどちらかであった。ずっと同じ土地で生活を共有して来た人間が、かくまで浅ましく殺しあうそのエネルギーは一体なんだったのだろう。


この戦いの中国人の死者は三万人から六万人と言われています。この死者もこの反乱全体の死者の一部にしか過ぎません。 全体では もっともっと多くの破壊と死者があったのでしょう。
これらの歴史的な背景も金子さんは説明していますが 先の文章の中でも書かれている様に「殺しあうそのエネルギーは一体なんなのだろ」と 私達も考えてしまうのではないでしょうか?
この反乱の収拾の過程では 今度は多くの回族が虐殺されて行きます。

      シルクロードは戦いの路でもあります
この様に シルクロードの特に天山南路からカスピ海に向かう中央アジアは 部族・民族・宗教の違いなどによって抗争を繰り返して来ました。
私達が 旅して見られる物は 現在残っている遺跡などです。 そこには 昔の流血の跡はもうありません。
でも そこに行ってみなければ絶対に分からない 匂いや気配や暑さがあります。 不味い料理も 臭い便所も そこに行くから分かると思います。
だから 今日来た町の その先に もっと行ってみたいと思っています。

  そんな訳で 今回は 後戻りしてウルムチに行きました。
  次回は フンザに向かいたいと思います。      


    

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2009年6月23日 (火)

ガンダーラに向かって原始仏教を考える

          何故 原始仏教か
ここまで通って来たシルクロード沿いの多くの石窟などに示されて来たのは 当たり前の事なのですが 仏教の遺跡です。
それは また当然の事としてそこには仏教の教えがありました。 私達は そこに残されている像や壁画などから ある程度の事は意味を感じる事が可能です。
しかし 像や壁画の基になる物は仏教の教えです。  その教えを基にして その像や壁画が有るのですが 私は何故か 個々の宗派的な教えよりは 元々仏教て一体なになのて 感じてしまいました。
その自分の 感覚に基ずいて 仏教の教えの出発点の仏陀の教えに付いて知りたいと思いました。
しかし 調べていくとこれは とても大変な事が分かりました。  仏教は仏陀の死後約2400年の間に その時間的な経過の中で 様々に変化しただけでなくて 元々の仏陀の教えが非常に限られた形でしか残っていないのです。ですから その残された 原始仏典と呼ばれる物を元に考えて行きたいと思います。
 それは 私のような素人にはとても手に余りますので 幾つかの書物の記述を元に 自分なりに整理してみたいと考えます。

          原始仏典とはなにか
原始仏典に付いて 奈良康明氏の「原始仏典の世界」では次のように書かれています。
  「原始仏典の中でも、「ダンマパダ」、「ウダーナ」あるいはこの両者と深くかかわっている「ウダーナヴァルガ」という作品、また「スッタ二パータ」「テーラガーター」「テーリーガーター」などのテキストは原始仏典の古層に属し、あるいは少なくとも古い伝承を忠実に保っていると思われます。」
 と書いてあります。

これらの仏典の中でも 特に最古層に属して仏陀の直接の教えに忠実ではないかと 言われているのが「スッタ二パータ」です。

この「スッタ二パータ」に関して 中村元氏は その著書「原始仏典を読む」で次のように 述べています。
「歴史的人物としてのゴータマ・ブッダ(釈尊)の遺言のようなものをまとめた一つの書はないか、尋ねられたことがありますが、そのような物は存在しません。厖大な大蔵経に万巻の書が、みな「仏説」であり釈尊の直説であるということを標榜しています。しかしその中で最も古いもの、つまり歴史的人物としてのゴータマ。ブッダの教えに最も近いものを示せ、ということならば「スッタ二パータ」がそのうちの一つであるということは、原典批判研究を行っている諸学者の間では異論がないのです。」
と書かれています。 この「スッタ二パータ」は中村元氏が別の著書「ブッタのことば」として纏められています。

では この「スッタ二パータ」とはどの様な教えの経典なのでしょうか?

この経典に付いては 雲井昭善氏の「万人に語りかけるブッダ」 副題スッタ二パータをよむ が良いと思います。
この「スッタ二パータ」の成立の時期に付いては 氏は「この教団史によってごく自然に考えた場合、上座・大衆という二派に分かれた紀元前270年ごろ、つまり紀元前三世紀のころには、南方上座部のパーリー経典が成立していたということになるわけです。したがって 「スッタ二パーター」は、少なくともここに起源をもつということになるわけです。」
と書いています。 これは 釈尊入滅を紀元前383年とすると その後100年後位の時期を示しています。
この時期は 第二回結実があり 上座部と大衆部の分裂という仏教教団史にとっても 極めて大きな転換期であったと思われます。
しかし 内容的には その詩偈が部派を越えて伝えられている事から 成立は第二回結実の前も考えられ その意味で「何よりもまずブッダの肉声に限りなく近いということです」と 書かれています。

 さて この「スッタ二パータ」の内容的な事は これからまた考えて行きたいと思います。

 なんて言っても 仏教の歴史は とても長いのですから。
 これかの ガンダーラに向かいながら 少しづつ 考えて行きます。
 次回は そんな事を考えながら カラコルムハイウェイをカリマバードに向かいます。  ここら辺も だんだんと物騒に今わなっています。

        

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2009年5月 5日 (火)

シルクロード パキスタンへ

        国境の町 スストへ
国境の峠 クンジュラブ峠を越えると そこはパキスタンになる。
ここからは 中国の国道314号線と離れて カラコルム・ハイウェイになります。
しかし 私達日本人が考えるハイウェイとは 全く異なります。 私達は ハイウェイと言うと自動車用のシッカリと舗装されて 二車線が有る路を想像するのが普通だと思います。
しかし このカラコルム・ハイウェイは 確かに自動車は走れますが 車が擦違うのがやっとの狭い路で 舗装も所々が傷み 決して快適な旅は出来ません。
このカラコルム・ハイウェイは 中国の全面的な援助で作られた路と 言ってもいいと思います。
01_2 この写真は カラコルム・ハイウェイがフンザ川沿いに走っている所です。
写真の 右側の山沿いに走っています。   
川の中央の所に 吊り橋が架かっています。
こんな所に 橋を架けて 一体何処に行く人がいるのだろうか? と私達は考えてしまいそうです。

この路を走って行くと 路の途中で昔の交易に使われた路(昔のシルクロードと説明されました)を 険阻な岩山の中腹に見れます。
03 でも この写真でも 何処だと説明するのは とても大変ですね。

ただ こんな木も生えていない岩山の中腹を 当時は山賊の襲撃を警戒しながら行き来したのは 本当に大変だったろうと 想像しました。

峠を通ってからは スストの町までは ハイウェイ沿いには町らしい町は全くありません。

  出入国の手続きはスストで
中国とパキスタンの関係は 表面上は良い関係なのです。
それは この両国が かってインドと緊張関係を持っていたことが原因です。
まぁ 「敵の敵は 味方」みたいな者なのでしょう。
この辺は この三国を含めてこの地域の現代史を見れば 明らかになると思います。
特に インドとパキスタンとの血で血を洗う戦争の歴史は 凄まじいもので有ったと 色々な書物に書いてあります。
ですか 中国からパキスタンへの入国の手続きは 平穏に このスストの町の事務所で行われています。
02 スストの町には 中国との交易の中継ぎ地点でもありますので ハイウェイ沿いには 色々なお店が有ります。

しかし 町の人達の服装や顔立ちは ここがもう 中国ではないのだと ハッキリと分かります。
このスストの町を経由する カシュガルへの路も 平均5月から11月頃の季節で 後は雪に閉ざされしまう。
この写真を撮った日は まだ9月の上旬でしたが 峠の辺りには雪が舞い 寒い日でした。

      ガンダーラに向かい 仏教を考える
このカラコルム・ハイウェイは昔のシルクロード沿いでもあります。 この路をガンダーラに向かう事は 仏教の教えを溯る事でもあります。
当然 このハイウェイ沿いにも 幾つかの仏教に関した遺物が有ります。
これから ガンダーラに向かいながら 仏教の昔に溯る事 原始仏教もしくは初期仏教に付いて考えてみたいと思います。
特に ガンダーラは仏像の発祥の地でもあります。 その様な想いに耽るには最適な所とも言えます。

     それでは 次回は 風の谷のナウシカの舞台と言われたフンザの中心
カリマバードに 向かいと思います。

  しかし 日本は 現在 深刻な経済不況です。 また パキスタンも同じように世界的な金融恐慌の影響を直撃されて 地方は部族支配(地方軍族です)とイスラムの原理主義的な復権が台頭しています。
  本当に 旅が難しくなっています。 

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2009年2月 8日 (日)

シルクロード 国境の町へ

         2009年もシルクロードです
新年が明けたのに 何故か続きのシルクロードを書く気がしないままに もう2月になってしまいました。
多分 多くの所で言われて居る様に 今年はシルクロードにとっても激動の年になるのでしょう。 今まで通って来た中国では 急激な経済成長のブレーキが 中国内部の経済格差での軋轢を表面化させるでしょう。  また アメリカのイスラムとの関係変化が ウイグルを中心とした中国内の民族・宗教の緊張を強めるに違いありません。
多分 オバマ政権の方が これらの民族・宗教の問題に関しては原則的な主張をするに違いありません。  それが良いのか 悪いのかは 何を基準にして考えるかで 大きく違ってしまうと思います。
これから向かう パキスタンでも同じ問題を抱えています。 パキスタンでは昨年 強権的ではあるが プラグマチックなムシャラク政権が倒れてしまい 原子爆弾を持った不安定な国家がイスラム原理主義に包囲されている と言って良いと思います。 経済的にも パキスタンは追い込まれています。
そんな事を 見ていると何か とっても気が重くなってしまい昨年から進めなくなっていました。

まぁ その事は これからも追々考えて行くとしてもシルクロードを先に行きたいと思います。

      国境の町 タシュクルガンからクンジュラブ峠へ
カシュガルから国道314号線を走って 前回書いたカラクリ湖の脇を通って 中国とパキスタンの国境の町タシュクルガンに着きます。  カシュガルからおおよそ300km位です。  出入国審査は町の外れに有ります。ホテルなどの有る町の中心の路は両側がポプラ並木になっていて なにか淋しげではあります。
この町では 余り見る物はないのですが 町の外れに石頭城という城壁の跡があります。
玄奘の「大唐西域記」の帰りの記述にも この城跡が書かれています。  行ってみましたが 寒い風に吹かれただけでした。
ここで審査を受けて パキスタンに向かいます。
国道の終着点のクンジュラブ峠は標高4700mです。 何度も 高山病に付いての注意を受けます。  でも 正直な所 行ってみなければOKかどうかは 分からないのです。
01 バスに揺られて ひたすら高度を上げて行くと 本当の国境の印に着きます。
バスに座っている時には気が付かないのですが ここに着いて歩き始めると視線が定まらないで 少しづつ眩暈が始まります。
最初は アルコールが入った感じで良いのですが だんだん気持ち悪くなります。

そんな訳で やっと 国境まで着くことができました。
では 次回から
カラコルムハイウェイで パキスタンの国境の町 スストに向かいます。

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2008年12月14日 (日)

シルクロードの国境

        国境の町に向かって 
カラクリ湖を過ぎて 中国とパキスタンの中国側の国境の町タシュクルガンに向かいます。
このパキスタンに向かうシルクロードは シルクロードの物資の交易路としては余り重要とは言えません。  しかし シルクロードを仏教を含む文化の交易路として考えると 重要な路だと思います。
国境の町に向かいながら 今まで通り過ぎて来た中国と言う国に付いてもう一度考えます。
ある地方紙に 辺見庸さんは 「東風は西風を圧倒したか」と言う一文を書いています。 これは 辺見さんが八月の北京オリンピックを尋ねて感じた事を元にしていす。  この様に 書いています。

    五輪を開催した北京に、私はいわくいいがたい違和感をおぼえ、そのわけを探しあぐねていた。いま、やっとわけがわかった気する。これはある種の自己嫌悪なのだ。資本という食人的関係性から逃れられない「われわれ」への。東風の資本は西風を圧倒しつつある。だが、資本の運動にはもともと西も東もありはしなしい。いまは魯迅にならい、こう祈ろう。「人間を食ったことのないこどもは、まだいるかしら?せめてこどもを」

私も 幾度と無く中国を訪れましたが ある種の違和感をずっーと感じています。シルクロードを旅して行く時の自分の気持ちの中には 明確な姿としてはないですが ある種の自分のルーツを探す気持ちが有ります。
しかし そこに有るのは形としての相似形と 気持ちとしての違和感です。それは 否定し切れないと言う意味で 自己嫌悪という形で自分自身に引き受けないと 本当の関係は見れないのだと思います。
中国に対する 私の個人的な幻想が打砕かれて行けば行くほど その想いは強くなる感じがします。

どちらにしても 人間はその様な個人的な幻想を基にして生きて行く動物であるのですから そこに拘るのは世界を拡げる とっても大切な要素なのです。

          では 国境の町を
そんな訳で 今年はここまでで終わります。
来年には 国境のクンジュラブ峠を越えてカラコルムハイウェイを通ってパキスタンに入りたいと思います。
パキスタンは 現在はイスラムの国ですが歴史的には 仏像の発祥の地でもあります。 その辺を来年は見て行きたいと思います。

     それでは 良いお年をお迎え下さい

          

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2008年10月26日 (日)

シルクロード カラクリ湖へ

         パキスタン国境への道
カシュガルを出発して ゲズ河沿いに国道314号線をパキスタンとの国境の町タシュクルガンに向かいます。
この国道314号線は 私達が過ぎて来たウルムチからクンジュラブ峠までの約1800kmを走っています。 このカシュガルからの路も この5年前位には綺麗な2車線の舗装道路になっていて 中国内陸部の開発のスピードを実感します。 綺麗になる前までは 落石しそうな切り立った岩山の下などを穴ぼこばかりのガタガタな路でした。
カシュガルを出て ゲズ河沿いにカラクリ湖を目指すと左側の ゲズ河の向こう
5 側に昔のシルクロードの路の跡を見る事が出来ます。
この写真の手前の少し平らな所には 当時の宿場の跡だと説明されました。カシュガルの標高は 約1200m位でこの辺りは 概ね2500m位は有ります。写真でも 後ろの方の山の厳しい感じが分かると思います。
この山並みは8611mのK2を含むカラコルム山脈の一部です。
玄奘三蔵も インドからの帰路にこの付近の路を唐の国に向けて帰ったと思われています。
この写真の路では 右から左に向かったことになります。
国道314号線を更に走ると カラクリ湖の手前に もう一つ湖が有ります。

この湖は 高度3150m位の所に有るウロン湖です。




湖は塩湖になっています。 だから厳しい冬でも水は凍結することがありません。湖の周りに放牧されている羊達は 夏の季節にこの周辺で飼育されて 冬に成ると 下の方に降りていきます。
02

写真を拡大して見て貰うと 分かりますが向こう側の山の下の方にある雪のような物は 風で削られた砂だと説明されました。
もしも そうならば とても生活するには 過酷な環境だな と思います。
このウロン湖を通り過ぎて 更に進むとカラクリ湖があります。
01 このカラクリ湖は 概ね3500m位の高度に有ります。
湖の向こうに連なる山は 7719mのコンガール山などです。
山々の間には 氷河の一部が迫り出しています。
何か 本当に雄大な感じがして 厳粛な気持ちにさせられます。
この時は 外気温は14度位でしたが 風が強くて 本当に寒く感じられました。 湖の水に手を入れてみましたが 冷たい!て感じではなくて 意外でした。

このカラクリ湖の横の国道314号線に立って 風景を眺めているとガタガタと一台のバスが走って来ました。
バスには 多くのパキスタン人が乗ってこちらを見ていました。
思えば このカラクリ湖から中国・パキスタン国境のクンジュラブ峠まで 約300kmなのです。 あのバスは カシュガルからパキスタンの国境の町スストまで走っているのです。

旅をしていると 何時でも 一つの目的地に行くと 必ずその先はどうなっているのだろうか? と 思うことばかりです。
そんな事で良いのだろうか と思いながら次回は 更に先に行きたいと思います。

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2008年8月 3日 (日)

シルクロード カシュガルから

          再び カシュガルで北京オリンピックを
そんな 訳でカシュガルからホータンを経て砂漠公路までの西域南路を東に行って来ましたが また 再びカシュガルに戻って来ました。
その間に 北京オリンピックの関係で幾つかの注目される事が この周辺でも有りました。  ラサのチベット族の人達の事は マスコミでも大きく何度も取り上げられてますので かなり理解がされて来たと思います。
しかし この新疆ウイグル自治区の動きは あまり報道されなかった様なので ここで報道された事を振返りたいと思います。
  
「台湾の中央通信社によると、中国新疆ウイグル自治区南部のホータンで
   3月23、24の両日住民によるデモ活動があり、公安当局が500人以上を
   逮捕した。参加者は、これまで当局が拘束したウイグル族への残忍な
   行為の停止と、政治犯の釈放を求めたという。」
  「6月18日北京五輪の聖火リレーが、一部に独立運動もあるウイグル族
   が人口の約7割を占める新疆ウイグル自治区の都市カシュガルであった。
   妨害などを恐れた当局は沿道住民の外出を禁止した。予定されていた
   テレビ中継もなくなり、一般市民がリレーの様子を知ることは出来なか
   った」

前にも書いた事ですが この地を漢族の地であると主張する事は 歴史的な経緯を捨象して 現在の状態で考えると無理なのだと思います。
また 宗教的にも禁欲的なイスラムの人達と 現世享楽的な事に価値を置いている漢族とでは 余りにも隔たりが大きくて 常に緊張感を作ります。
中国が 改革開放と言う資本化をする80年代までは それでもまだ少しは救いが 有ったのだろうと思いますが。
また これも以前に書いた事ですが 最近の経済成長で自信を深めている漢族の人達は 他の民族に対して傲慢に接している事は 傍に行くとよく分かります。 これは 多分中国だけでなくロシアなどでも起こっているのだろうと想像します。
そんな訳で このシルクロード沿いの多くのオアシスの町も 世界的な激動から無関係では居られずに 様々な意味で変容を遂げつつ有るようです。

その事に付いては また 今後も機会を見つけて報告して行きたいと思います。

       そして カシュガル郊外で
01 このカシュガルでの仏教遺跡としてはこの莫爾仏塔があります。
高さ15m程の仏塔で 日干しレンガ造りです。 様式は タイなどの小乗仏教の形式と言われています。
この周辺は 荒れた砂礫で塔の下の方に行って地面を掘り起こしてみると何かはよく分かりませんが 色々な破片を見つける事が出来ます。
これから行く ガンダーラ仏教文化のこの地に入ってくる先駆けのような感じですね。
この仏塔の周辺には 多分僧房などの建物の遺構ではないかと考えられる物があるそうです。

    そんな訳で 次回はカシュガルから国道314号線をカラクリ湖に向けて行きたいと思います。


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2008年6月15日 (日)

シルクロード 西安再訪で

      西安にまた行きました
この間 西安から敦煌を経てカシュガルまで行ったのですが 機会が有って今回 久しぶりに西安を再訪しました。
前回の訪問から 6年間位経っているので その変容ぶりに とっても驚きました。 中国の多くの都市は 本当に急激に華々しい方向に変化していると思います。 そんな 事を今回は報告したいと思います。

     大雁塔周辺は ピカピカの遊び場です
04 前回 大雁塔を訪れたのはカシュガルからの帰りに 傍の唐華賓館に泊まって 朝にぶらぶらと散歩がてらに行ったのが最後でした。
その時は まだ当然ですが大雁塔の周辺は 特別な開発などは行われていませんでした。
朝や夕方などは 静かな佇まいの中に塔が建っていて 玄奘三蔵が遥かインドから仏典をシルクロードを経て 此処まで運んで来たのだな て 勝手に物思いに耽る事も出来ました。 しかし 現在は違います。
この写真に在るに 塔の周辺はライトアップされた公園になり その横には食事をしたり買物をしたりする建物が取り囲んでいます。
また 大雁塔自体も ライトアップされています。現地ガイドによれば塔も 地下水の汲み上げの影響で ややこの写真にある様に やや左に傾いているそうです。 ガイドに依れば 地下に水を入れているので元に戻ると言っていました。ホントウかな?     傍の 唐華賓館も現在では 外国人には開放していないそうです。
  このような変化は 兵馬俑博物館の周辺でもありました。
前に訪れた時は 兵馬俑博物館の周辺にバスを止めて 沢山ある小さなお土産屋の間を 店員の「買っていけ 買っていけ」と言う喧しい声をすり抜けて 博物館に行ったのに 現在は全く違います。
デカクて立派な駐車場にバスを停めて そこから博物館の間は大きな公園のよになっています。 歩いて行くのな大変なので電気自動車が往復しています。
 あの多くのお土産屋は 一体どこに行ってしまったのでしょうか?

        西安の城壁に登って
03 現在の西安の城壁は 明代の立派な物です。
唐代の頃はもっと大きかったといいます。
この城壁に登ってみると この昔の城壁の大きさに関心させられます。
現在のような建築用の機械や工具などが無い時代に 本当に多くの労力が投入されたのだろうな と思います。
そして この城壁に登って周囲を眺めると 現在の西安の発達が良く分かります。
この写真にある様に 城壁の周りは高層ビルに囲まれています。商業ビルやマンションなどです。中国の高層ビルの上部は 多分風水の影響なのか 独特な形態をしています。
 それが 何とも いい感じではあります。

        そしてビールも色々になって
今回の旅行で 本当にビックリしたのは ビールの種類が増えた事です。  西安から 西に向かう旅のビールと言えば 前にも書きましたが 大体「西涼ビール」か「新疆ビール」でした。   今回の西安では 本当に色々なビールがありました。
02 現地の人達は「地ビール」と言っていました。
01 良くは分かりませんでしたが 同じメーカーで多少味付けを変えて ラベルを変えている様に感じました。
中国のビールは 基本的には アルコール度数が3.5%位で 普段私達が飲んでいるビールより 水ぽい感じです。 また ビールのコクて言う感じでも 物足りないと思います。  中国の人達は 普段50%以上の白酒で乾杯するのに 何故かビールのアルコール度数は低いみたいですね。

    そんな訳で 久しぶり訪ねた西安では 色々と驚かされました。
    でも その変化を感じる事も 旅の楽しみの一つではあると思います。

   次回は カシュガルに戻ります。

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2008年5月 3日 (土)

シルクロードで仏教を考えた

        私達 日本人は仏教徒なの
これは 前にも書いた事ではありますが 星星峡から新疆ウイグル自治区に入ると そこはイスラムの教えが中心となる地域です。
イスラムの教えの地域では まだ宗教が生活の中に建前としては強く残っています。毎日の事では 豚肉は食べないやお酒は飲まない。 そして一日五回のお祈りが ミナレットから聞こえてくるアザ―ンによって始まると そこは確かに我々は異教徒の旅人なのだと 感じるはずです。
この様な イスラムの教えの人達から 現世的で享楽的な傾向を強く表に出して来た漢族の人達を見ると かなり強い苛立ちが有るのではないかと 考えてしまいます。それは この先 カラコルムハイウェイをパキスタンに入ると 我々も アルコールは飲むことが出来なくなる事で強く 感じます。
そして その漢族の人達と私達 日本人は同じ仏教徒と言う事になっています。
このシルクロードで多くの仏教遺跡を観てくると あぁ多分 私も仏教徒なのだろう と言う感じではありました。 しかし それも仏教の中でも 一つの宗派である大乗仏教と言われる教えの物が大部分だったので 分かり易かったとも言えると思います。
今 中国のチベットで問題になっているチベット仏教は 一般的な大乗の教えとは異なるチベット密教で 私などには余り身近な存在とは言えないと思います。
密教の世界は また複雑で一筋縄では行かないと思いますが 複雑なのは現実の民族の問題も同じだと感じてしまいます。
新疆ウイグル自治区を含めた 中央アジアの民族問題や宗教間の確執はまだこの先も キット続くのだと思います。 
中国やロシアが もっと柔軟な対応が出来れば 緊張は少しは和らぐのでしょうが この二つの国は 1990年以降の新しいナショナリズムが国内に充満していて その様な事は無理なのでしょう。
だから 私達が シルクロードを旅していて 道路工事などを見かけた時は キット 工事を直接している人達は現地の民族の人で 監督は漢族の人と言う場面を見ると思います。

         さて 砂漠公路の先は楼蘭だ
カシュガルからホータンを通って 砂漠公路までやって来たけれど この先は幻の町 楼蘭です。今回は まだ この先の楼蘭には行っていませんので とりあ

01_2
えず現地の絵葉書です。
楼蘭には 私達一般の観光客が入るには かなりの費用が必要です。
それは 一種の入場料みたいな物がかなり高額だと聞きました。

でも 入ってはダメ なんて言われると余計に 入ってみたくなるものですね。機会が有れば 是非 訪れてみたいと 思っています。

 そんな訳で 西域南路をカシュガルから東に向かう旅は とりあえず終わります。 次回は カシュガルからパキスタンに向かう道に入ります。
でも その前に この出発点の西安を再訪して 報告したいと思っています。

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